拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『都市テクスト論序説』

(実際に書いているのは26日。)

都市テクスト論序説

都市テクスト論序説

「拓殖のあと」プロジェクト(ってもさっぱり具体化しないわけですが)のために買って読み始めたのだが、これは面白いなあ。言説レベルの分析と物語レベルの分析、そしてそこに介入する読書行為。言葉を読む不自由と言葉であるがゆえの自由。それを実践する読者。
武蔵野の地にビルマをかいま見てしまう主人公が、その視覚イメージを武蔵野の地における鎌倉時代からの戦いの歴史を探ることによって、つまり言葉によって探ってゆく/開いてゆく・・・大岡昇平『武蔵野夫人』が論じられていたので、速攻で注文した。これは読んでいないのだった。
まだ50ページしか読んでいないのだが、刺激受けまくりである。
一言。幽閉されているがゆえに奔流するエネルギーをため込んだ「始原」としての武蔵野、という趣旨の言葉があるわけだが、この「始原」はoriginなのか、はたまたbeginningsなのか、とありがちな疑問を抱いたりもして。いや、『武蔵野夫人』の場合は男と女のカップル、はたまた先日話題になったナイポールは父と子との「血のつながり」に「聖なるもの」を求めているとのことで、こういう対になるような関係性ではなくて、もっとテキトーな関係性を探る方のも面白いだろうなと思った次第でして。
あ、しかしあれか、対になるような関係性が仮にある種の拘束力というか不自由さがあるとして、だからこそそれは自由を求めて奔流するエネルギーを蓄えている、というのが田口さんの(すくなくともここでの)主張か。