拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

反ヲタ小説

今日明日はアイヌ語地名&『フィネガンズ・ウェイク』で原稿を書く、書く、書く。
昨日は終日『武蔵野夫人』を読んだ。
間男たる勉さんは武蔵野台地とか富士山とかを、自分の道ならぬ恋の象徴(人妻・従姉妹の道子さんの「道」も意識的でしょうな)と捉えているにしても、明らかに過剰な地形学的知見が書き込まれていて、これが過剰であるが故に面白いのだが、最後になって大岡さんはこう書いてしまうのである。

彼は初めて復員後彼に憑いていた地理的興味が一種の感情的錯誤ではないか、と疑った。(新潮文庫、193頁)

俺〔勉〕が幾度も狭山に登って眺められなかった広い武蔵野台地なんてものも幻想にすぎないんじゃないか。俺の生まれるどれだけ前にできたかわからない、古代多摩川の三角州が俺に何の関係がある。あれほど人がいう武蔵野の林にしても、みんな代々の農民が風を防ぐために植えたものじゃないか。工場と学校と飛行場と、それから広い東京都民の住宅と、それが今の武蔵野だ。(新潮文庫、193頁)

古代多摩川という隠れた「自然」を裏切る人工物としての武蔵野。いや、人工物としての武蔵野の自然だからこそ萌えるという展開があってもよさそうなものなのだが。