拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ほとんど反動的な言葉

岡さんの『棗椰子の木陰で―第三世界フェミニズムと文学の力』の「1 文学に何ができるか」に収録された二本のエッセイ、「棗椰子の木陰の文学」と「出来事の低みで」から。

最初のエッセイは、「アフリカで子供が飢えているときに文学に何ができるか」というサルトルの問題提起を受けて、ジャーナリズムと文学との違いを、ある意味驚くほどシンプルに語っているもの。

ジャーナリズムは戦争といった問題が起きてのちはじめて、それらの問題が生起する社会について伝える。だが、大切なのは、そうした出来事すべてに先立って、人々がどのようにその生を営んできたか、何を愛し、何を慈しみ、何を大切にして生きてきたか、そうした生の具体的な細部ではないだろうか。それを知らなければ、私たちは、戦争や占領が、彼、彼女からいったい何を奪い、何を破壊したのかを真に知ることもできない。そして、戦争や占領が人間から一体何を奪い、何を破壊したのかを真に知らないままに唱えられる「反戦」や「平和」は、それがどれだけ正しくても、抽象的なお題目にとどまるだろう。(12−13頁)

二つ目のエッセイは、アブー・グレイブ刑務所での拷問ポルノ写真について。投獄経験を語るために来日したザッファル・アフマドさんは、集会や記者会見といった公の席では拷問の具体的な話は出なかったという。記者たちは、当然かつ正当にだが、具体的な話を聞きたがったのだが。

私たちは出来事の犯罪性を糾弾しようとするあまり、犯罪を証拠立てる写真に目を凝らし、そうすることで、私たちの視線はおのずと拷問者のそれをなぞり、被害者を客体に貶めてしまう。だが、そうではなく、写真の前で目を伏せること(それは、犯罪に目をつむることと決して同じではない)、言い換えるならば、行為の具体性に目を凝らすジャーナリストとは違う形で出来事に向き合うことの大切さをこの逸話は示唆しているように私には思われる。そこでなされた行為の数々、そのおぞましさを細部まで私たちがいかに詳細に知ることができるかが問題なのではなく、「言い知れぬ屈辱を受けた」というその言葉から、そのような抽象的な言葉でしか言い表すことができない出来事の深淵、闇の底に、私たちがどれだけ深く降りてゆくことができるかが問われているのだと思う。文学的想像力とは、そうした思考の力のことだと思う。(17−18頁)

この二本のエッセイのあと、意図的に収録されたのであろう「「二級読者」あるいは「読むこと」の正当性について」という論文を読んで衝撃を受けてから8年。今こういうほとんど反動的にシンプルな言葉を読むと、この人の苦闘に深い感慨を覚えずにはいられない。人事ではないのだし。

こうした出来事のすべてがやがて、文学者の手によって必ずや小説に著されるだろう。メディアが積み上げる「テロ」「部族社会」「イスラム過激派」といった不毛な言葉の瓦礫の下で、イラクの人々が今、不条理に被る痛み、苦しみ、悲しみ、そしてその人間性がいかに貶められ、その尊厳と生が破壊されているか、それらをつぶさに描き出しながら、しかし、[1]私たちが拷問者のまなざしに同化し、彼らを客体に貶めるのではない形で、人間としての彼らに出会うための作品。[2]同時にそれは、拷問者の人間性についても語る作品となるだろう。(18頁)*1

[1]の部分は「二級読者」論文で論じられている読者の正当性への問いと関連してくるだろう。私としては、[2]の太字部分のことを考えなきゃいけないわけだろう。

*1:そんな小説を読みたい!という人は、本書の「あとがき」をどうぞ。