拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

岡さんの「私」

「私、「私」、「「私」」・・・・・・M/other('s) Tongues(s)」、『棗椰子の木陰で―第三世界フェミニズムと文学の力』76〜104頁
読書メモ。
・引用
(1)

言いかえれば、一見したところ、曖昧さの欠片もないかに見えるその言葉に、私(たち)は、言語本来の不透明さを取り戻し、言語のその物質性に徹底的に躓くことで、母語母語として、自明なものとして生きているかに見える私(たち)自身のアイデンティティを脱臼させることが、必要なのではないだろうか。(82頁)

(2)

言語が言語であるがゆえに、物質性を担い、ときに、話者の意図に反して、他者に呼びかけてしまったり、また、あるときには、その透明性をにわかにかき曇らして、私たちを排除する。言語の、その他者性に私たちが引き裂かれ、〈世界〉に、私たちがその柔肌をさらして、血を流すこと、そのようなものとしての母語、他者の言葉を、私たちもまた生きているという事実を痛みをもって知ること。
だが、そのとき、私たちがともに他者の言語を生きているというそのことが、私たちを他者へと開かれたものにする。その反転の契機を、誰のものでもないこの母語のうちに見いだすことはできないだろうか。(102頁)

・岡さんの議論は言語遂行論をふまえている。例えば、『私という旅―ジェンダーとレイシズムを越えて』における、一見透明な日本語による母語(日本語)のわからなさの語りを理解したよ!ととりあえず考えている私(たち)の躓きを、「私」を問わずにはいないテクストを精読しながら問いなおす、等々。
・私(齋藤)の場合は、北海道のアイヌ語地名を考えることで、母語(日本語)のわからなさを考えてきたが、これはいわば金達寿さんの『日本の中の朝鮮文化―相模・武蔵・上野・房総ほか (講談社学術文庫)』にならった、郷土史の知見を積み重ねるやり方。→こういう知見を積み重ねることができる「私」の特権性等々については私も自覚はしているつもりだけれども、それは今の私が自覚できることを自覚しているに過ぎない。今の私が自覚していると思っていることも自明ではないと説く岡さんの議論をどうするか。→単に「無知の知」を知っていると言明するだけなら、「私」の知を誇るだけ。むしろ「無知の無知」を遂行するか。→デムパなテクストの完成。
・文体はデムパではなくても、読みの圧倒的な過激さと物量で「私」の脱臼を遂行するデムパテキストとしては『ロビンソンの砦』もあるが・・・
・齋藤:①アイヌ語地名(売買川)が「珍しい!」→②これは「川走」(せんそう)なのだ→③この「川走」に私も巻き込まれている、まではなんとか書ける。問題は③のあと。私個人の経験はそのまま一般化できない。私個人の秘めた想いだけにもしたくない。どうするか。岡さんの議論──引用(2)のように、言語遂行論的な〈私〉の脱臼を、その経験の他者との分有の契機へと反転させる──を参考にできるか。それとも『フィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wakeではない)の力に頼ってしまうか。それとも、放置プレイにするか。