拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

私の「問題」続き

とりあえずTVの故障ではなくて、ケーブルテレビの一時的不調だったようで。よかった一安心。

かくして、〈女〉という統一体を構成し、同時に不可能にもしている差異への感受性を志す立場として〈わたし〉はふさわしいとは思えない。むしろ逆に、個々人が通常感じているであろうその一人称主体へのリアリティは、〈わたし〉が普遍化する空間を構築し、ひいては他/多なるものを見極めようとする努力を停止してしまいかねないだろう。*1

・「バイオ医療、移植外科学、遺伝子実験、バイオテクノロジーによって進められている身体の断片化思考/実践と、グローバル資本主義との連結を重視する」ナンシーシェーパー=ヒューズさんの指摘をふまえて。

このような状況が示唆するのは、これまで自然に重ね合わされていた身体の境界と〈わたし〉の境界がズレを来している現実だろう。〈わたし〉の体内で他人の臓器が生き永らえる、あるいは〈わたし〉を生かすという事態はどうか。また治療から美容までの様々な目的の下、いまや体内に人工的につくられた「詰め物」を持つ人々は少なくないだろう。(中略)/このような身体現象が仄めかす〈わたし〉感覚の終わりをどう取るか、フェミニズムを含むアイデンティティ派研究に取っては大きな課題であるだろう。

・ここでハラウェイさんの「サイボーグ宣言」が再読される。

果たして、自律的にして統一的な人間の位置を占め得ないサイボーグは、ただ起源も忘れ、浮遊に終始する存在でもない。少なくともハラウェイの描く像から再確認すれば、それは「同一性」ではなく「親和力」に基づいて「関係性を熱望する」政治的主体である。このイメージはさらに、ウォルドビーが描くポスト人間身体が、他者との関係性に結ばれていくイメージにも類似する。

下↓の「だるまさん」も「「親和性」に基づいて「関係性を熱望する」政治的主体」だいうことか。ただそれは〈経験〉ですんなりわかるような言葉ややり方で言明されるわけではない。

坂手洋二さんの作・演出「だるまさんがころんだ」──地雷原を憎みつつそこに惹かれていく人々、手足を失った「だるまさん」(自らの意志や権力の誘導ではなく、地雷原に身を投じ続けるサイボーグ女性)の物語が最後に考察される。

ある主体が、部分的に死んだ存在を抱えることで身につける勇敢さとは、恐らく非常に悲惨なものだ。その意味からも、この女の台詞のほとんどに主語がなく、とりわけ〈わたし〉という単語から始まるものが数えるほどしかないことは偶然ではなかろう。己が抱える被傷性を自ら訴えることのないこうした存在は、〈経験〉とは正反対な、〈不在〉に対する感受性によってしか跡づけることはできない。つまり、人が偶然にも地雷を踏まずに生きていることに気づく時、そこには逆に、彼女たちの秘められた活動が中心化してくるのである

「〈経験〉とは正反対な、〈不在〉に対する感受性」。
昨日、李静和さんの『求めの政治学―言葉・這い舞う島』に収録された、結構前の鵜飼哲さんとの対話をパラパラめくっていたのだが、李さんは、例えば「南・韓国」について、サバルタンについて、今は言えない、書けないといった言葉を連発しているのにあらためて気がついた。新田さんが言っている「感受性」の発露、か。

  • 新田さんの「亡霊を待ちながら」から。

・ラディカル・フェミニズムに接近したバーバラ・ジョンソンさんとスピヴァクさんを比較しつつ、新田さんは後者の立場を選んでいる。

否、「女性」という記号の本質化が、仮に誰かの戦略に寄与することもあるとしよう。しかし、その非決定性の忘却は結局、そもそもが真性ではない筈の場を占有する力を持った特定の「女性」が、そこから無限に誰かを括り出すことを容認する。それは、結局は端的に不正義な、女の階層構築に他ならない。

新たな他者を封殺する危険に突き当たる主体論的転回は、しかし、その危険を冒してでもなされるべきだと考える風潮が、現代の米国には存在する。時にはそうした状況が、多文化主義と呼ばれることさえある。たとえ誰かの利害を封じても「敗者復活」ができる場さえ機能していれば、また意義申し立てのできる対話の場さえ設けてあれば、倫理的には問題ない──こうした立場は特に、「アゴーン」という概念イメージ等から正当化され、学問的共感を勝ち得てもきた。しかしながらこれは、驚くべき強者の論理にもとづく主張だ。万人が政治的自己表現を行うことができ、それが完璧に「正しく」聴かれ、さらには発話を妨げる偶発性が絶対に起きないことを想定しなければ、こうした論理は成り立たない。

*1:コピーに頁数が入っていない、ミスったよ・・・。