拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

二つのディアスポラ・アート

9月19日の補足。
授業では徐京植さん『ディアスポラ紀行―追放された者のまなざし (岩波新書 新赤版 (961))』が紹介する文承根さんの作品「活字球」という作品(『ディアスポラ紀行』の巻頭にその写真が掲載されている)と、Mona Hatoumさんの作品、'Home'(Tate Galleryで2000年に個展が行われた)を比較してみた。
「活字球」は文字通りの作品。球体に活字がびっしり埋め込まれているもの。以前私は「世界の片隅で誰かが一人で泣かないように地球は丸く作られている」という仮研メンヘル板のカキコを紹介したが(それをグラムシさんの「東西はない、地球は丸いのだから」という発言に結びつけたのだがw)、なるほど球体の表面は、人が恣意的にラインを引かない限り、どの点も「平等」である。そこに活字=書くことを結びつけた文さんの作品は、ディアスポラについて苦闘しながら書く徐さんの興味を惹いたのだろう。
が、徐さんは、在日二世としてのアイデンティティや病気に苦しんで35歳で亡くなった文さんの作品について、ちょっと正確な言葉は忘れたが(テクストが手元にない)、端正過ぎる、もっと情念を爆発させないのか、在日韓国人の作品はこういう傾向がある、私はいとおしさと哀しみのような複雑な気持ちをいつも持つのだ、と書いている。
この文さんのアートに対して、レバノン出身の女性アーティストHatoumさんの「ホーム」は、主張がクリアでメッセージも強く、ある意味分かりやすい。
居間とおぼしき部屋がある。そこにはテーブルがある。什器がある。家具がある。しかしそれらは一つのケーブルでつながれている。そしてそのテーブルの直前には、ピアノ線とおぼしき線が横一面に張り巡らされている。ホームは見える。鉄条網でもない。しかし線ははってある。ホームには行けない・・・と、理解できる。(ここにサイードさんの解説が付く。)
「この二人のアートを観て、どうよ?」と問うてみたわけです。私も含めて、これらのアートを観た印象を深めていけたらと思う。