拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ナショナルなアフリカ

職場はすでに秋休み。とはいえ明日から修羅の二日間が始まるので、今日は嵐の前の何とやら。
夕方から熊本県立大学砂野幸稔さんの「なぜアフリカ文学か?」という講演を聴く。砂野さんといえば、まずはエメ・セゼールさんの『帰郷ノート/植民地主義論 (平凡社ライブラリー)』の訳者として知られているのだろう。*1
講演のあと早速質問が出たのが、表題の言い方。なぜ「ナショナル」なのか、と。
これについては、まず「ナショナル」であって「ナショナリズム」ではないことが強調されていた。そしてこの「ナショナルなアフリカ」とは、未完のプロジェクトとしての(西欧)近代の遺産──民主主義やサッチャーさん以前の英国福祉政策など*2──を引き継ぐことを意味しているのだ、という説明があった。アフリカ作家は民主主義や福祉(「ナショナル」)を「アフリカ」において求めているのだ。なぜなら、民主主義も福祉もアフリカでは極めて必要性が高いものだからだ。ダルフールを思い出すだけでも十分だ。
砂野さんが「ナショナル」に込めた意味(の複数性)についてより深く検討したい人は、上述熊本県立大学HPでリストアップされた論文「ナショナルな語りとしてのアフリカ」を読むべきなのだろう。残念ながら私は用事があったので質疑応答の途中で退室してしまったので「ナショナル」についてのやりとりの帰趨は把握していないのだが、「ナショナル」というある意味でイメージが悪い概念の可能性を徹底的に洗ってみるという姿勢はアリだと感じる。*3「英文学」だってずいぶん古くさくてイメージが悪い看板わけなのだった。

*1:私は『「複数文化」のために―ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』に掲載された論文でお名前を知ったのだった。

*2:なるほど、彼の地にはNATIONAL Health Serviceというのがある。

*3:フランスでアフリカ人たちと交流したことが現在の研究の根っこにあるという。おそらく「ナショナル」についての議論もそのとき相当交わされたのではないか・・・ご本人には聞くチャンスがなかったけれど。