拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

COPR3

都合によりCh.3 "History" (pp.198-311)は飛ばし、Ch.4 "Culture" (pp.312-421)を読み終え、ひとまず今回は通読したということにする。
第4章はジェイムソンさんの「文化」論理があまりに詩的=全体化志向であることを説きつつそれに抗するというところから始まり、*1バングラディシュでのindeginous NGOsと連携した教育活動でのインフォーマント、シーマ・ダスさんとスピヴァクさんとの出会い/すれ違いで終わる。要するに、「文化」中心主義的「研究」批判を行う中で"the (im)possible perspective of the native informant"を探る試みということになる。
もちろん試みであり、答えは出てこない。副題"Toward a History of the Vanishing Present"の"the vanishing present"は"culture on the run"と言いかえられてもいる。そもそも脱構築の立場から言えば"present"は常に不在なのであって、これは現在完了と区別しなければならないのである。*2
英文学(制度)ヲタとしては、次の言葉が身に染みる。

A caution, a vigilance, a persistent taking of distance always out of step with total involvement, a desire for permanent parabasis, is all that responsible academic criticism can aspire to. Any bigger claim within the academic enclosure is a trick. (362)*3

んじゃどうするのよ?とまぜっかえして安易なマニュアルを求める自堕落な人間は罵倒されるだろう。あなたも自分で"in the night of non-knowledge" (頁数忘れた・・・)でもがきなさい、と。
スピヴァクさんがもがいているわけだから、私がもがくのも当然だ。というわけで、私はこの本を読んで元気になりました。

*1:pp.328-330における『The Political Unconscious』第1章におけるマルクスさんのNatureとNecessityについての非決定論的な記述を引用するジェイムソンさんへのコメント──マルクスさんは決定的なズレを記述しているのであって、そこから安易なcultural logicを引き出すなかれ云々──は、なんだかずっと昔の柄谷さんのようです。

*2:もう少し具体的に授業やカリキュラムをどうしたらよいかと思う人は、『Death Of A Discipline (Wellek Library Lectures In Critical Theory)』における地域研究と比較文学の連携についての記述を読むべき。実際、地域研究の当該地域における言語習得と知識は、「南」の文学・文化を精読せんとする比較文学者にとって必要なのであって、これはスピヴァクさんの次の言葉を読んでつくづく感じたことだ。"[...] it is at least interesting that the Aboriginal Ainu of Okinawa have looked to Australia for models of emancipatory legislation." [352]これ、沖縄ではなくて北海道の間違いではないだろうか。

*3:この引用に長い注68がついているのだが、この中で『ある学問の死』で言及された、デリダさんの『友愛のポリティクス』における「おお友よ、友がいない」についての考察が言及されている。