拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

○○コのふき方列挙もErnstなのかw

6月20日
午前1コマ。試験。カフカ「父の気がかり」。
午後は会議。マジ暑くて死んだ(当然エアコンは稼働しておりません)。
6月21日。
どうも最近尾籠なネタが多いのだが、これは私のせいではなくてアウエルバッハさんが悪いのである。というのも、第11章(下巻)で、少年ガルガンチュアの文字通りくそったれな試行錯誤を読めと厳命しておいて、最後にこんな結論を出すからだ。篠田さん&川村さん訳から、原語(ドイツ語)と英訳のキーワードを添付したゼミでの配付資料から。

彼の文体の豊かさは、無限ではない。感情の深さ、もしくは雄大な悲劇性は、グロテスクな枠取りによってすでに除外されているし、前者が後者に接近しうるとも思われない。したがって、われわれは日常性と真剣な悲劇性の統一(die Vereinigung von Alltäglichkeit und tragischem Ernst [269])を追求しているので、彼がわれわれの研究の中に正統な席を占めうるのか、疑わしくなってくる。(中略)――第4巻7〜8章から引用――日常性に関しては、これだけである。しかしその真価(Ernst [270]→seriousness [284])は、あらゆる可能性を孕んだ、あらゆる現実的・超現実的な実験を敢行する発見者の喜び(Entdeckerfreude [270]→joy of discovery[280])にあるのだ。(40; 43)

「真価」は英語と同様に「真剣さ」と解した方が分かりやすいと思う。数頁前に「日常性と真剣な悲劇性」という言葉があり、同じErnstを使っているから。
で、重要なのは、アフォな知識の列挙等々の嵐であるラブレーさんはいわば天上の世界を忘れ(第9章のダンテさんと対照される)、地上の世界の「遊び」「喜び」で暴走しているわけだが、その暴走ぶりにこそ「真剣さ」があるという議論だ。一つの視点から物事を追求するのではなく、あくまで多様な視点から「発見」することも「真剣さ」なのだという(これは院生K君の指摘)。
つまり○○コ拭き列挙もマジな「発見の喜び」になるわけなのだ。そういうもんかねえw、と一応つっこみつつ、もちろん私はこういうことを書くアウエルバッハさん万歳である。
午後。
エアコンが試験運転開始。ウマー。