拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

本当の勇気

同僚のKさんからお恵みいただきました。啓蒙的な薄いパンフレットだが、この著書が依拠している先行研究や今後のKさんのお仕事を猛烈に読みたくなる好著。

ロシア史の中の日本学 (ユーラシア・ブックレット)

ロシア史の中の日本学 (ユーラシア・ブックレット)

一九九〇年、私は、ロシアにおける日本学形成史、特にニコライ・コンラドの伝記を明らかにする、ということを課題としてレニングラードに留学した。大学の東洋学部に所属する傍ら東洋学研究所へ通ったのであるが、研究所二階の廊下、ちょうど日本科室の扉の向かいの壁に、模造紙を継ぎ合わせた畳二畳を横に並べたような大きな紙が貼ってあり、そこにはタイプライターで打った人名と説明、そして肖像写真がびっしりと貼り込まれていた。それを近くから見て、スターリン時代に「粛清」された東洋学研究所員の記録だとわかったときの衝撃は忘れることができない。何百人もの東洋学者たちの簡潔なバイオグラフィは、いずれも「○年銃殺」「○年〜○年○収容所」といった一文で終わっていた。ネフスキーをはじめ、知る限りの日本学者の名をそこに見いだすことができた。そこには思いがけずコンラドの名もあった。公には抹殺された人々の情報を集め、このタイプ打ちをした人の勇気に驚き、それを黙って掲げている研究所の空気に粛然とし、この表を必ずやソ連から持ち出して世界の人の知るところにしなくてはならない、と思い、私はその日からポータブルタイプライターを掲げて研究所に通い、壁に向かって写し取っていった(ノートパソコンの時代が訪れる前のこと)。ほぼ一年後にソ連が崩壊し、それとともにソビエト時代には見ることができなかたアルヒーフが次々に公開になり、より正確な情報も出て、ロシア人学者自らの手で公刊されている。(59ー60)