拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

春休み

3月12日。
iPhone 16Gを購入。×ちゃんとか「▼研」とかはこれで寝っ転がりながら見ています。
3月13日。
は金曜日。別に何もなかった。科研関係の最終的な処理のめどがつく。
3月14日。
終日ゴロ寝。
3月15日。
同上。
3月16日。
本が数冊届く。

スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人

スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人

ほぼ一年前に出た本なのだが、未読であった。手にとって読み始めたら、インタビューの相手がSwapan Chakravortyさんじゃないか!私らが台湾の学会でバカ話したり屋台でメシ喰ったりしたインドの先生でした。このSwapanさんが、スピヴァクさんから、結構生々しい話(若い頃は背が高い美人だったのでいろいろ言われた云々とか)を引き出していて、読み応えあり。
アラブ、祈りとしての文学

アラブ、祈りとしての文学

4月4日の大塚英文学会での発表に向けて泥縄勉強。

『わたしを離さないで』は、アウシュビッツへの応答であると同時に、サルトルの問いに対する、作家イシグロの実践的応答として読むことができるだろう。彼らは人間らしくその生をまっとうすることはできないのだと、世界から当然のように見なされ、その生もその死も、世界に記憶さえることのないこれら小さき者たちの尊厳を、小説こそが描きうるのだという応答である。それはまた今日の世界におけるパレスチナ的現実への応答であり、これら祈ることしかできない小さき人々に捧げられた祈りでもある。祈りとしての文学──
文学は祈ることができる。あるいは、祈ることしかできないのだ、と言うべきなのだろうか。だが、祈りとは何なのか。「解放の神学」の神父たちが銃をとったのは、祈りを無力と考えたからだ。人間が人間となった太古から連綿とあったこの営みは、銃によって、あるいはダイナマイトによって、否定されねばならないのだろうか。(17)

夜、翻訳を少しすすめる。
3月17日。
添削。翻訳。「イントロ」ざっと訳し終わるが、これ訳語の決定には相当勉強しなきゃならんな。
楽天ブログの「旅日記」、削除。1年も更新していないんじゃどうしようもないのであった。こちらにすべて集約します。