拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

山古志と中山隧道

6月27日。
朝まで××を必死に片付ける。
早朝、レンタカー(トヨタヴィッツ)にて新潟県長岡市山古志へ。新潟中越地震の被害は相当なもので、べろんと地表が喪失しているところがあった。そのあと、手堀り最長(877メートル)とも言われる中山隧道を歩いて往復してきた。照明といっても150メートルおき位にポツリとあるだけで、途中はほぼ真っ暗。懐中電灯なしだったので、これは正直怖かった。しかし極めて涼しく、昼寝するなら最高だろう。
長岡駅前の居酒屋で一杯。
6月28日。
翻訳をやったあと、六十里越から奥只見、南会津、下郷、白河、東北道北関東道へと帰宅。途中、甲子峠を下りてすぐの「追原庵」にて手打ち蕎麦を食べるが、これはうまかった。
6月29日。
院2コマ。『現代批評理論のすべて (ハンドブック・シリーズ)』のMさんによる入魂の「ポストモダン批評?」を読む。『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』第2部第4章のポストモダンポストコロニアル批判*1を受けたものなのでしょう。多様性の擁護と同時に「必要悪」としての「正解」(二項対立図式)を認識せざるを得ないジュディス・バトラーさん的な知識人の取るべき戦略として、「正解」(ジェンダー)の外側はないのだから、パロディーを続ける「絶望の戦略」があるわけだが、他方、外側への訴えを通して、翻って内側の変革を目指すという、アンディー・ウォーホールさん的戦略もあるという議論を、ネチネチ読む。ポストモダン批評が多様性の賞揚から「必要悪」としての二項対立図式の認識に至るわけだが、その「必要悪」の戦略的活用の価値を模索する試みに、ウチのロラン・バルトさんオタクな院生Kさんは感動していたのであった。私としては、バトラーさんとウォーホールさんが同じ土俵で論じられるところに興味津々なのでした。
採点。死ぬ・・・。××、ひとまず終了。
6月30日。
朝5時、おはようございます。朝飯前に採点。

*1:これ自体は、多様性やら異種混交性やら断片化はむしろグローバル資本そのものになっている云々というもの、格別珍しいものではない。