文学作品と「文学」
翻訳仕事のため、イーグルトンさんの『文芸批評とイデオロギー』を読んだ。
文芸批評とイデオロギー―マルクス主義文学理論のために (1980年) (岩波現代選書〈40〉)
- 作者: T.イーグルトン,高田康成
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1980/01
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発達した社会形態において、この文化的装置の下部構造をなす文学は、「伝達」のイデオロギー的装置を比較的深く関わるが、その真の力は、広義の教育制度との関連で発揮される。文学のイデオロギー的機能――すなわち、生産様式の社会を心に植え付ける機能――が最も明らかになるのは、この制度においてである。小学校から大学に到るまで、支配的イデオロギー体制の認識及び象徴に個人を組み込む手段として、文学は欠かせぬものであり、しかも、この役割を他のイデオロギー的実践にない「自然さ」と感覚に訴える直接性をもって果たす。しかし、これは、個々の文学作品をイデオロギー的に利用するといった問題ではなくて、根本的には、文学を文化的、教育的に制度化することにからむイデオロギーの問題なのである。最終的に問題になるのは、文学作品ではなく、「文学」である。すなわち、歴史的規定を受けたテクストが、社会体制から分離し、「文学的」と定義され、統合整理のうえ一連の「文学伝統」を構成し、イデオロギー的に決まった一連の枠組を形成するようになる過程そのものに内在するイデオロギーの問題である。(『文芸批評とイデオロギー』、72頁)
話を単純化しすぎではあるが、私の仕事は「文学」を問題にするために文学作品の読みを読む、ということになるだろうか。