拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

父の思い出(1)

週末から業務の嵐なのだが、今日の午後は少し時間があるので、はてなブログを使って父、齋藤正孝(さいとう・まさたか、1936〜1999)のことを書いてみる。
父は北海道夕張市の出身で、祖父は炭鉱夫、鉱夫頭と呼ばれる立場の人だった。祖母は専業主婦。どちらも1964年(だったはず)に亡くなっているから、1968年生まれの私は写真でしか顔を見たことがない。
特筆すべき、なのかどうかわからないが、この祖母・祖父には11人の子供がいて、男5人、女6人の大所帯、私の父は3男坊だった。これは父から聞いた話だから本当かどうかわからないけれど、夕張では13人兄弟というのが最多だったのだが、齋藤家も子沢山でかなり有名だったそうだ。当然ひどく貧乏で、父は幼い頃から新聞配達をしながら生活費と学費をまかなっていたという。「冬の新聞配達は本当につらかった」「犬に吠えられて怖かった」「夕張時代にいい思い出なんかない!」となんども言っていたのを覚えている。
そんな父だが、夕張北高校(当時の夕張市進学校、今はない)在校時の思い出として、こんなことを話していたことを覚えている。「俺は理数系が得意だったから、先生に「お前の学力ならばMITにいける、頑張りなさい」といわれたんだ」と、これはちょっとだけ誇らしげに言っていた。私はそれを聞いた時、「北大や東大や京大に行けるってんならまだ理解できるけど、よりにもよってなんでMITなんだろ??」と思ったのだった。
これは今でもわからない。親父が高校生だったのは1951年〜53年だったはずだが、つまりは米軍による占領終了の前後であり、その頃だと、アメリカへの強い憧れというものが、北海道の夕張の高校の教師や生徒にもあったのだろうかと想像するが、わからない。こういうことは当時の新聞記事やら雑誌やらを調べて、「日本におけるMIT言説」みたいなことを明らかにすればよいのだとも思うが、たぶんそんな時間はないだろうから、ここに書いて終わりにしたい。
なお、私の弟は、名古屋大学で、ざっくり言って水素と金属の反応(私が弟の博論を読んでもよくは理解できなかった)で博士号をとったので、MIT(でもどこでもいい、大学で学問をしたいという)父のはかない夢は、その息子がある程度かなえたのだともいえるかもしれない。そうはいっても、やはり父本人は大学に行きたくてしょうがなかったとは聞いている。そのあたりのことは、また別の機会に。