拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

立岩&上野

札幌に帰省したので、話題のマイカル小樽に行く。なるほど巨大であるが、巨大過ぎて買い物を楽しめない。三年程度で倒産しないことを祈るのみ。そのマイカルの一角にビブロスなる本屋があったので、立岩真也『私的所有論』(勁草書房、1997)を購入。

私的所有論

私的所有論

そのあと小樽駅でH(小樽商大助教授)と待ち合わせ、寿司を食う。旨かったが、握りが小さかった。「欠食児童」の私は、清田区栄通の回転寿司「海天丸」も捨てがたい。札幌の清田区にある実家に帰る途中、上野俊哉ディアスポラの思考』(筑摩書房、1999)を購入。
ディアスポラの思考

ディアスポラの思考

立岩さんの本は必読だと思う。非常に基礎的な問題を、例えば次のように問いつめてゆく。

・・・少なくとも私にとっては、この社会でごく普通に起こっていること自体が問題だった。「私が私の働きの結果を私のものにする。」それでよいのか。同時に、そこから私達は抜けられるのか。頭がわるい。体がわるい。それでできない。そのことで不当な利益を受けていると言う人がいる。実際このようにこの社会は構成されているのだから、これは全く正当な指摘であり、この社会の構成の基本的なところを問題にしたのだから、根底的な指摘だった。しかし、その提起は結局どうなったのか。(中略)もう一つの話は、結局いろいろやってみてわかったように「市場経済」で行くしかないのだし、行くのがよいのだし、そこにまずいところがあれば、「福祉国家」か何か、手を打てばよろしい、このように終わる。しかし、それで終わっているのか。なにごともなく平穏無事だという安穏な主張を受け入れない。しかし、言い放しの批判にも与することができない。「能力主義」「業績原理」が問題だとしてそれを一体廃棄することができるのか。そしてどんな代替案があるのか。(3−4)

このように問題提起する立岩さんは、「他者」のことを考えざるを得ないと説くに至る。「他者」――なんだか結論が見えてしまうようだ。実際、この本の結論は新しくない。しかしそれはどうでもいいことだ(この「新しさ」に対する懐疑は、多少ものを考える人間ならば、誰でも共有するはずだ)。立岩さんの仕事の意義は、我々が考えそして選ぶべき選択肢を整理してくれたこと、そしてその整理のプロセスを愚直に、500頁にわたってつづってくれたことである。このしつこさを学び取りたいと思う。第9章「正しい優生学とつきあう」については、英文学者のNさんやKさんの読書感想を聞きたいものである。
文句がある。この本は6000円もする。これは高い。こういう本こそペーパー版にして売るべきだ(注:立岩さんの文章は、こういう「ぶつ切り」スタイルなんです、僕は意外に好きですね)。
上野さんの本は、これまで彼が所々で書いてきた論文をまとめたもの。まとめて読めるのは便利なので、お買い得ではある。
(追記:この本の「著者紹介」を読まれたい。過剰である。上野さんという人はこんな風に「自分史」を語る人だとは思わなかった。正直吃驚である。どうしちゃったんだろう。06/05/99)

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注記(2006年3月12日)
その後、マイカル小樽は店名を変えつつ、迷走を続けている。