拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『恋愛小説のレトリック』

先週、SJ大学のMさんから、工藤庸子『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』(東京大学出版会、1998)はいいよと奨められたので、早速読んでみた。

これは良い本である。例えば、『ボヴァリー夫人』の冒頭部の教室の場面で現れる「僕ら」(nousとon)の意義は、有名なアンダーソンの「想像の共同体論」によって説明されている。誰でも思いつきそうだが、しかし分析は手堅く、しかも読ませる。おそらく学部の学生向けの講義を想定した本なのだろうが、こういう講義を受けられる東大の学生は幸せである。
僕の専門はコンラッドだが、それとの関係で参考になったのは、「序論」は必要ないというフローベールの書簡をめぐる次の文章である。

フローベールは、「見せる」ことが大切なのであって、個人的な「省察(reflexions)」をつけ加えてはならないといっている。(25)

コンラッドの小説The Nigger of the 'Narcissus' (1897)の有名な「序論」には、小説家の仕事とは、何よりもまず、感じさせること、聞かせること、そして見させることだ("to make you see")とある。この点において、コンラッドフローベールの忠実な弟子ということになるだろう。
ところが、コンラッドエクリチュールフローベールのそれとは大きく違う。いや、違うというのは正確ではない。例えばLord Jim (1900)は、フローベールも瞠目するであろう技巧的なエクリチュールと、後半部のライダー・ハガード的植民地メロドラマとの混交である。
フローベールの『ボバリー夫人』は、工藤さんによれば「見せる」ことを重視したエクリチュールである。この感覚への、あるいは工藤さんの言葉を使えば身体性への傾斜、これは「見させること」の重要性を説くコンラッドに引き継がれ、しかしコンラッドの場合は、この感覚への傾斜が矛盾としてあらわれる。後半部の植民地メロドラマはその矛盾の「象徴的解決」である。『ボバリー夫人』においては未だ沈殿していた要素が発現したのが『ロード・ジム』である。
『政治的無意識』のコンラッド・チャプターは、『ボヴァリー夫人』を読み、工藤さんの本を読んでおけば、(たぶん)よく分かる。