拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

クレオリテについて

個人的には激動の一週間であった。*1
昨日、ある思想系の研究会主催の「クレオール」と「ポストコロニアリズム」をめぐるシンポに参加した。『無為のクレオール』の大杉さんによれば「ポストコロニアリズムの総本山」とでもいうべき顔ぶれであった。僕も刺激を受けた。特に、鵜飼哲さんの提起した「倫理」と「欲望」の対立という問題である。*2
どういうことか。まず1)欲望を肯定する立場。「クレオリテ」という概念や「ポストコロニアリズム」という概念の肯定的な側面を認め、積極的に使っていこうではないか;ポストコロニアリズムということで、旧宗主国の研究者や読者が「第三世界」のテクスト等に「欲望」を抱くというのは、確かにある種の搾取ではあるかもしれないが、しかしその「欲望」は認めてもいいのじゃないか、等々。2)倫理を強調する立場。「クレオリテ」や「ポストコロニアル」という概念がどこで生まれ、誰が使うのかという権力の問題をしっかり見極めないとダメだ、等々。こういう二つの立場の対立が議論の中で浮かび上がってきた時に、鵜飼さんが「欲望」と「倫理」の対立とまとめてくれたのである。そして、この手の議論をするときに不可欠なテクスト、スピヴァックの"Can the Subartan Speak?"の冒頭こそ、この「欲望」と「倫理」の二項対立を問題にしているのだと。
鵜飼さんの提起は僕にとって非常に刺激的だった。これはまさに(少なくともスピヴァック以降の)「脱構築」が問題にしてきたことであり、そうであれば、さんざんスピヴァックやバーバを読んできているはずの英米文学研究者こそ、この二項対立に対して重大な関心を払うべきではないか。
我田引水になるが・・・例えばコンラッドのHeart of Darknessを読み、チヌーア・アチュベ以来のracismやsexismについての議論をフォローすること、それは重要である。さらに議論を深めることもいいことだ。しかし、例えばそういう高尚な議論をする前に、日本の植民地主義の問題、日本の人種・性差別の問題をどうするのだ、それを考えないとダメじゃないか、という声も聞こえてくる。これは正しい反応だ。ただ、1)英米文学テクストに刻印された西欧植民地主義に関心をもち(欲望をもち)、それについて語ることと、2)いや、それではダメで、日本の植民地主義を何とかしなきゃダメだ(という倫理的姿勢)は、全く相容れない対立として考えるべきなのか。
僕はそうではないと思う。これは論文に書いたのだが、コンラッドのHeart of Darknessは1940年、中野好夫によって(それまでは「暗黒の中心」「暗黒の中核」と呼ばれてきたこのテクストが)「闇の奥」として翻訳されたという事実がある。しかしどうして「闇の奥」なのか、これまで誰も考えてこなかった。実は中野が用いた「闇の奥」という言葉は、当時台湾の高砂族(今は高山族)が住む地域のことを指していたのである。中野はコンラッドが表象したアフリカの奥地を台湾の奥地に重ねて考えていたのであり、またそのように読むよう読者に密かに促していたのである。
Heart of Darknessというテクストにのみこだわるのではなく、「闇の奥」にこだわる。そして、中野好夫の翻訳「闇の奥」の文章に身をゆだねながら、しかし彼が用いた日本語「闇の奥」や「恭順蛮人」という言葉につまづき、敏感に反応する知識と感性を磨いてゆく。
とはいえ、それでも私は今のところは倫理的な態度を強調する必要を感じる。こういう読みができない/できなかったとすれば、それはなぜなのか。おそらく、倫理と欲望がせめぎ合う場としての「翻訳」を異様なまでに蔑視してきた英米文学制度を批判しなければならないのではないか。そういう批判をした後で、あるいはしながら、英米文学を変形してゆく可能性を見いだす必要があるのではないか。それはもう「英米文学」ではあり得ず、ただ「テクストを読むこと」と言うべきかもしれない。

*1:この年の8月12日に父親が亡くなった。このころは筑波と札幌の北大病院を飛行機で行き来しつつ、10月1日に帯広に赴任する準備をしていた。[2006年3月13日]

*2:7年前にすでに「欲望」の問題をシンポでやっていたのである。ところが私はすっかりそれを忘れている。つまり、当時は全然わかっていなかったのだ。