拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『プリミティブへの情熱』

Rey Chow(周蕾), Primitive Passionsの翻訳、『プリミティブへの情熱』(青土社、1999年)。すでに多くの周蕾ファンがむさぼり読んでいるのだろうが、私もその一人。やはり刺激的である。

プリミティヴへの情熱―中国・女性・映画

プリミティヴへの情熱―中国・女性・映画

近代性(modernity)と視覚性(visuality)についての周蕾の優れた分析を読んだあと、私はやはり自分の仕事のことを考えた。
日本において英文学テクストを読むということは、少なくとも1920年代までは、「日本」という主体を立ち上げるプロジェクトの一部であった。その自覚があった。アジアの一部でありながら西洋列強の一員でもあるという曖昧なポジション、その曖昧さから生じる緊張や葛藤を解消するための一手段として、いわば「極東のブリテン」としての自己成型を果たすため、英文学テクストは読まれたのだった。
ただ、これは本当に読みだったのか、かなりアヤシイ。
二年前、私はコンラッドの「青春」という短編が日露戦争時にどのように読まれたかを分析したのだが、よくよく考えてみると、この短編は読まれたのではなく、地政学や歴史を包摂する「青春のヴィジョン」を立ち上げるための媒体だった、日本人読者が「青春のヴィジョン」を見るための媒体だったのである。また、一世代あとの福原麟太郎は、「青春」の語り手・主人公マーロウの語る「東洋」を想起して落涙したという。どちらのケースも、テクストの異種混交的な意味作用を解放するのではなく(reading)、その異種混交性を抑圧し均質的なヴィジョン(nation)を立ち上げようとする実践である(seeing)。英文学者が選ぶべきは前者であろう。

ところで、第三部の翻訳論は必読である。日本の外国文学者はずっと翻訳をやってきたのだから、この周蕾の議論に応答した方がよいし、できるはずである。