拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ナイナイ

9月学会の準備を、コツコツと。

翻訳と雑神

翻訳と雑神

私にとっては必読本なのでした。

とはいえかかる翻訳をめぐる言説は、理想論であれ経験論であれ、起原のテクストが帰属する言語と、それが翻訳されるべき言語の間に横たわっている文化的ヘゲモニーの問題については、ほとんど関心を向けることがなかった。この二つの言語が形態こそ違え、本来的には言語として対等の同質性を保持しており、一方から一方への表象代行行為は透明な形でなされるべきである。しかるに何かの事情が働いて、それが上首尾に機能していない。翻訳論者たちはこうした前提に基づいて、二つの言語があたかも平等にして均一的な場所に併置されているかのように振舞ってきた。もっともこうした論議の多くが対象としてきたのはヨーロッパの諸言語の間になされる翻訳であり、英語からキクユ語への翻訳、あるいはウォルフ語からフランス語への翻訳といった場合が翻訳論の題目として考えられていたわけではなかった。
日本に関するかぎり、どうだろうか。日本語と他の言語(多くは欧米の言語)の間の翻訳を論じるにあたっても、そこにいかなる言語的に不均衡な力関係が作用しているのかという問題が、これまで論じられたことがあっただろうか。日本語と旧植民地の言語の間で翻訳がなされるとき、双方でどのようなテクストが選択され、どのような人間が翻訳作業に従事し、結果としてその翻訳がどのように消費されていくか。はたしてそこに、言語的な均衡や透明な表象関係を前提としてよいものだろうか。こうした問題が翻訳論として立てられた試みはわたしの知るかぎり、ほとんど皆無であったように思われる。また日本社会における言語的多様性の広がり、翻訳の対象となる言語の内部における多様性が、翻訳にどのように影響する(あるいはしない)という問題も、等閑視されてきた傾向がある。誰か、ニヴヒ語と日本語、石垣方言の沖縄語と日本語、パラオ語と日本語の間にある意思疎通の問題を、翻訳論として論じた者がこれまでいただろうか。(22−23)

つ 拙論「柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイク1〜4』におけるアイヌ語地名について」(筑波大学大学院人文社会科学研究科文芸・言語専攻『文藝言語研究』文藝篇50、2006年、95−119)
つ 拙論「売買川走」、筑波大学文化批評研究会編『テクストたちの旅程 移動と変容の中の文学 [ 荒木正純 ]』(花書院、2008年、304−313)

全然本格的な論考ではないのだが、四方田さんが研究者にやってくれとある意味煽りまくっている方向に私の仕事もあるような気がする。

当然四方田さんも柳瀬訳を論じているわけなのだが、38頁、柳瀬訳の「上から下内へ」の内(ナイ)も、アイヌ語で「川」の意味であるということを、39〜40頁の四方田さんの論旨−−ジョイスがテクストにおりこんだ「水」のイメージを、さらに過激に演じることが柳瀬訳の意義であった−−に付け加えておきたいのだった。
ホッカイディアンであることの役得か(?)。