拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

図書館に籠もる

筑波大学付属中央図書館の耐震工事がいよいよ本格化してきて、特に1〜3年(実際何年になるんだろう・・・)の間基本的には使用ができない一階書庫の教育大図書の中から、ごく一部だけを選定する作業を開始する。
そういえば、拙著『帝国日本の英文学』で私はこんなことを書いたのだった。

王寺〔賢太、パリの新国立図書館について述べたエッセイを引用〕の言い方を借りれば、本書に収斂するリサーチを始めた時点で、私はすでに日本の「英文学(研究)」という巨大な「図書館」の中に入り込み、今はその迷宮のただなかでさまよっているわけだ。私の場合、具体的にいうと、一八七二年の師範学校から約一三〇年間に購入された大量の英文学関係図書が所蔵されている筑波大学中央図書館の一階書庫の中で、一八九九年創刊の『英語青年』復刻版を手始めに、昔の英文学者の今ではあまり読まれていない著書や論文をひたすらコピーし、関連(するかどうかもわからない)資料と一緒にひたすら読みあさり、ある時は思わぬ発見に喜び、ある時は途方に暮れるということである。さすがにパリやロンドンや東京にあるそれぞれの「国家理性」を体現する巨大な「図書館」とは比較にならないが、筑波大学の「図書館」も一個人にとっては十分に巨大であり、そこに蓄積された「英文学」も相当なものだ。しかも私は一九四五年以降の「英文学」についてはまだリサーチすらも開始していないのである。こうした巨大な存在を「突き抜ける」というのは容易なことではない。しかし、「快楽と苦痛の経験」を得るチャンスを模索することもせず、「英文学」の中で呆然と佇んでいるつもりもないのである。(169頁)

「突き抜ける」前に、物理的に書庫に入れなくなってしまったという・・・。ある種の潮時なんでしょう、私にとっても。
とはいえ、まだまだリサーチをバリバリやらなきゃならない院生にとって事は本当に深刻で、これはこれまでも相当いろいろ議論やらなんやらがあったのだった。筑波出身のビル・ゲイツさんのような人がいれば、新図書館をぼーんと建ててもらうようにお願いしたいところなのだが。