近代東アジア、日琉関係、翻訳
- 作者: 與那覇潤
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/12/18
- メディア: 単行本
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帝国日本の最悪の局面は、普遍を僭称してその理念をわがものに翻訳しようとしたり、あるいは朝鮮文化を日本文化の文脈に翻訳したりして、その成果を収奪しようとしたことにあるというよりも、そのような翻訳行為自体を放棄し、「「文化=翻訳=普遍」の封鎖とともに、帝国日本は「自己植民地化」を自閉的にいっそう強化した」ところにあり、それは「朝鮮民族の受難」や「「朝鮮語抹消」」をもたらしたに留まらず、「世界に広がって新しく「細胞分裂」すべき「日本語」の自由も同時に抹殺」することであったという〔趙2007;165〕。帝国の問題は、それが身の程知らずの翻訳をしていることにあるのではなく、常に中途半端にしか翻訳をし続けないことにあるのだ。(241頁)★赤文字は原文傍点
拙著では、「帝国日本の最悪の局面」の前半、「普遍を僭称してその理念をわがものに翻訳しようとしたり、あるいは朝鮮(「朝鮮」には英米を入れてもよい)文化を日本文化の文脈に翻訳したりして、その成果を収奪しようとしたこと」を論じたが、「「世界に広がって新しく「細胞分裂」すべき「日本語」の自由も同時に抹殺」することであった」という趙(2007)の視点を十分に取り込むことができなかった。
與那覇さんの言い方を私なりに言い換えるとこうなるか。
「帝国日本の英文学の問題は、それが身の程知らずの翻訳をしていることにあるのではなく、常に中途半端にしか翻訳をし続けないことにあるのだ」。
具体例。英米文学作品の翻訳テクストを真正面から論じないこと、翻訳の正誤(しかしその基準は?)に注目しがちなことを指摘しても良いように思う。齋藤(2007)の柳瀬尚紀『フィネガンズ・ウェイク』論、来週韓国で喋ってくる(武藤さんの議論を踏まえた)『チャタレイ』方言論は、この「問題」に私なりに答えるものだということか。
それにしても「常に中途半端にしか翻訳をし続けない」という言い方は痛快だ。