拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

引用続き

同じでないものをその実践を通じて、事後遡及的に「同じだった」ことにしてしまう翻訳の力。そのような人間の言語使用の特性は、時として人々を合意した覚えもない同一性の檻へと囲い込む悪魔の道具であると同時に、意味の不確定性と更新可能性とを作り出すことで、「現時点での解釈」を絶えず相対化し続ける希望の源泉でもある〔高橋1998;141-145、安富2006〕。翻訳がもたらす負の側面を回避するには、この世界を再度完全に「近世化」するしかない――つまり、あたかも西洋の到来以前の東アジア諸国のように、対話の相手と同じ認識など共有していないし、することを目指す気もさらさらない、というところまで開き直るしかないが、そのような世界においても、あるいはおいてこそ、現実を理想へと翻訳する力が真に必要とされているのである。理想は現実のものとなりえないからこそ理想なのであって、したがってそのような翻訳ないし同一化が完了することな原理的にあり得ないが、しかしそれは恥じるべきことではない。むしろ決して「真の意味」や「絶対的な基準」といった到達点に達してしまうことなく、あたかも無限運動の如くに続く言い換えの連鎖の中で、絶えずよりよい言葉や解釈を求め続けることができるところに、翻訳という営為の面白さがある。「翻訳の歴史的な偶然性を考えるとき、すべてを完全に比較し、説明しうるようなロケーションなど、ひとつも存在しないはずである」という人類学者クリフォードJames Clifford 〔1979=2002;22〕の言は、他者に対する批判の道具としてではなく自分自身の実践の指針として、悲観的ではなく楽観的に読まれる限りにおいてのみ、正しいのである。(278-279)★赤文字は原文傍点

英文学は「決して「真の意味」や「絶対的な基準」といった到達点に達してしまうことなく、あたかも無限運動の如くに続く言い換えの連鎖の中で、絶えずよりよい言葉や解釈を求め続けること」だった。ただしこのとき英米文学の「原典」>「翻訳」という図式は厳然としてあった。英文学に欠けていたのは、「西洋の到来以前の東アジア諸国のように、対話の相手と同じ認識など共有していないし、することを目指す気もさらさらない」世界において、「現実を理想へと翻訳する力」だったということになる、のか。
名称が「英文学」だから、そもそもこういう「(近世化した)世界」を前提とした学問ではないわけで…。
那覇さんが見ている「世界」における「翻訳」に、「英文学」の学知が貢献できるところがあるか。たぶんある。単純に考えて150年間英(文)学やっているんですから、「英」対「日」という対形象化(酒井直樹さん)からずれているが、仮に英文学と言われてしまっている学知がないはずがないのである。人間そんなに図式的に考え実践できるわけじゃない。自分の営為を統制できるはずがない。それを掘り起こして正当な評価をしてから、帝国日本の「英文学」をどうするか考えてもいいんじゃないか。というか、仮にも英文学が好きだと表明している人はそうすべきだと思うのだが。というか、こういう作業こそ翻訳だよなあ、と。