拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

「済州島紀行」

岡倉由三郎の仕事について紀要論文を書いた。多分4月には活字になるだろう。このHPでも読めるようにしたい。で、この論文を書くときどうしても見たかった資料が、若き日の岡倉が書いた「東洋言語学」についての論文だった。これ、国会図書館に行くしかないかなと思っていたのだが、もしかすると畜大で読めるかもしれない。以前書庫を漫然と眺めていると、岡倉が寄稿していたはずの古い雑誌の復刻版があったのだ!仕事が忙しくてまだ確認していないのだが。ところが、今日、この記事を書くため雑誌名を検索システムに入力してみたのだが、なぜか出てこない。あの雑誌は、古書の匂いかなにかで恍惚状態にあった私がみたまぼろしだったのだろうか。だが、『東京言語学会雑誌』がずらっとならんでいるというヴィジョン、わるいものではない。

市河三喜済州島紀行」(1905)を読了。第一高等学校三年生の市河の手になる博物誌・紀行文、としか言いようがない。事前に調べたのであろう済州島の歴史、日本との関係――島民がフランス人宣教師への反感から日本に支配されることを望んでいるという記述もあるが、これは史実なのだろうか――を簡潔に述べたあと、記述は日記風に進み、結局は期待したほどの新種の昆虫は採集できなかったと結論したこの文章、面白くない。
なぜ面白くないのか。結局、市河にとっての異文化であるはずの済州島、その地で旅をする異邦人としての自己についてのwonder-fulな記述が乏しいからなのだろう。マリノフスキー以降の人類学や、クリフォード・ギーツ、ジェイムス・クリフォードなどの反省的な記述(観察対象と観察者との非対象的な関係、それに対する反省等々)になれてしまった私の目には、市河の記述はいかにも平板で、しかし手堅い。つまり面白くない。
やはり、20才前の若者がこんなに面白くもない「観察」記録を書けたのか、ということが重要になってくる。異文化に対する驚きや興奮があっただろうに(それとも本当になかったのか――もともと冷静な官僚タイプの人物だとは思うが)、それをあえて書かないことを学んでいたとすれば、この市河という若者は一体どういう知的土壌から出てきた人なのだろうか。
仮にこれから論文を書くとすれば、重要な点は二つあるだろう。
①市河と同時代に書かれた、市河の記述とは異なるwonder-fulな記述を探し出し、数多く読むこと。済州島の探検記などは結構あるのではないか。
②市河が中学・高校で読んだ本、学んだ教師について調べる。「観察者的態度」がどこから出てきたのかということ。「生まれつき」では面白くもない。