拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

ラーメンライスと岡倉由三郎

先ほど、ラーメンと小ライスを食べながら、岡倉由三郎のことを考えた。
岡倉という人は意外なくらい〈周辺〉〈混成〉〈差異〉という事態に出会っている人だが、同時にそれらと対照的な〈中央〉〈純粋〉〈同一性〉を立ち上げた人だった。私は拙論でこのプロセスの一側面を論じた。
が、すでに西成彦さんは『ラフカディオ・ハーンの耳』の中で、『古事記』研究の第一人者として権力側に立っていた文献学者バジル・ホール・チェンバレンと、被差別職能集団に伝わっていた「大黒舞」の韻文を英語の韻文に移し変えようとする文学者ラフカディオ・ハーンの間で、「大黒舞」のテキストを英語に逐語訳したのが岡倉由三郎であったことを書きとめている。

ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))

ラフカディオ・ハーンの耳 (同時代ライブラリー (340))

もちろん、西さんが注目するのは、〈文献学者〉チェンバレンと〈文学者〉ハーンの対立であり、こと「大黒舞」についてはチェンバレンの蔑視に有効な反撃ができなかった1892年当時のハーンと、そこから「耳なし芳一」へと踏み出したハーンについてであり、岡倉は単なる脇役でしかない。しかし、「大黒舞」の韻文を英語の韻文に置き換えることができず、逐語訳をやるしかなかった岡倉が、後年〈差異〉よりは〈同一性〉を重要視する英文学を立ち上げることになったことを考えると、この時の翻訳作業は意外に重要であると思われてならない。
もう一点。これは1920年頃だと思うが、市河三喜と一緒に『英文学叢書』の編集をやっていた頃、彼が力をいれて編集していたのが"Ballads"である。さすがはかつて東北方言や朝鮮語琉球語を研究した岡倉、バラッドという地方色豊かな芸能にも関心があったのかと納得してしまいそうになるが、しかし、本当に岡倉は〈地方〉なるものに関心があったのか、あるいはその関心とは一体どのようなものだったのか、これは考える必要がある。だいたい岡倉は標準語を作り上げるためには方言を撲滅しなければならないと公言していた時期もあったのであるから。
とかなんとか、これまで読んできた岡倉関係文献の内容を思い出しながら飯を食っていると、どうもこれは岡倉論の補遺を紀要にでも書いておかなきゃだめかと思われてきた。