拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『〈ゆらぎ〉の日本文学』

小森陽一『〈ゆらぎ〉の日本文学』(NHKブックス、1998年)の第八章「自己と他者の〈ゆらぎ〉――中島敦の植民地体験」は一応読んでおかなければならないと思って、この本を購入しておいた。

「ゆらぎ」の日本文学 (NHKブックス)

「ゆらぎ」の日本文学 (NHKブックス)

さっき読んだ。正直刺戟を受けなかった。おそらく入門書として書かれたのであろうからある意味当然だろうが。この小説が『文学界』お墨付きの国策に沿った小説であったという事実が議論に組み込まれていないからだ。この事実を考慮した上で、なおかつこのテキストが国策にとって異物であったかどうかを論じるべきではないか・・・。ここは中島論も書いている中村和恵さんに登場していただこう。

エキゾティシズムについていえばですね、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』という小説についてわたしは長いこと考えているのです。なにを考えているかというと、これがクソなのか深遠なのか、ということについて考えているのです。それぐらいすぐわかるでしょ!ってこれが、なかなか結論がでないのよ。(『降ります――さよならオンナの宿題』平凡社、2001年、p.118)

降ります―さよならオンナの宿題

降ります―さよならオンナの宿題

『闇の奥』はクソだった。『光と風と夢』もクソだった。まずはこの事実から出発して、そのあとこの小説が「深遠なのか」どうかという「なかなか結論がでない」問題を検討すべきだ。ちなみに私は、『光と風と夢』という小説は単なるクソではなく、〈批評〉という畑にまくべき肥やしではあったと思っている。ただし、クソはちゃんと畑にまいてやる必要がある。私の家の前の道路に時々どーんと存在している馬糞のように放置しておいてはいけないのだ。
これ、今書いている論文の要約です。