拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『ナショナリティの脱構築』

酒井直樹、ブレット・ド・バリー、伊豫谷登士翁編『ナショナリティ脱構築』(柏書房、1996年)から、酒井による「序論」の抜粋。

「われわれ日本人」という強烈な思い込みを持つ人々がしばしば、「外人」恐怖症に悩む外国経験のある人々であるのはここからも納得がゆく。しかし、恥じらいを持たせ対人恐怖を喚起する「外人」との出会いにおける茫漠とした規定である「外人」は、その来歴を尋ねてみると北米のヨーロッパ系男性であったりして、ごく限られた体験における外国人との出会いが無制限に拡大されてその人の「日本人」としての自覚を情緒的に支えていることが多い。「外人」はこの場合空想的な形象である。この「外人」には、朝鮮人も、タイ人も、インド人も含まれていない、あるいは、概念的には含まれていてもその情緒的な実感から拭い去られていることがしばしばある。(中略)おそらく「われわれ日本人」を反照的に規定している「外人」の実感は、このように概念的には全く一貫性を欠くにもかかわらず、情緒的に、個人の「日本人」としての自覚を支えるものなのである。(pp.10-11)

単一民族社会の神話は、おそらく、この情緒的な次元で機能しているのである。だから、個人によって異なる体験から生み出された情緒的な思い込みが、たまたま「外人」という言葉の下にまとめられ、あたかも、その反定立としての「われわれ日本人」という思い込みに対応する「外人」なる対象が存在するかのように思い込ませることになる。さまざまな違和感が「やっぱり外人はわれわれとは違いますね」という感慨によって述語化されるとき、あるいは、さまざまな違和感や社会的障害が、この「外人」対「日本人」という図式によって整理され認知されるとき、「われわれ日本人」が自覚されるのである。(p.11) 

ナショナリティの脱構築 (パルマケイア叢書)

ナショナリティの脱構築 (パルマケイア叢書)

「さまざまな違和感や社会的障害が、この「外人」対「日本人」という図式によって整理され認知される」のが英文学という制度であるのは言うまでもないが、その「整理」に英文学テキストを使うというのは諸刃の剣であるということを延々と言っているわけだ私は。