拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

『差異について』を読み続ける

ベルクソンを読み抜こうとするドゥルーズは、要するにヘーゲル弁証法(あるいはプラトン)と対決しているのは分かる・・・つもりだったのだが、昨日の夜まではダラダラ読み。
でも、今日、66頁あたりを読んでいて、ちょっとノってきた。

事物の裁断を司どるのは、実際的には事物の機能であり、目的であって、そのため事物はこの水準では外部からその差異そのものを受け取るようにみえる。しかしまさしく、この理由によって、ベルクソンは目的性を批判し、同時に、現実の分節化にもとどまらないのである。

「目的」の原語は何か、フランス語の原書がないので確認できないけれど(butかな?)、英語なら"end"でもいいわけで、そうなると"beginnings"と絡めて読めるよなあとむちゃくちゃ勝手に納得しながら、付箋紙張りまくり線を引きまくりで読み続ける。
「さまざまな始まり」は、サイードが表紙裏に掲げるヴィーコ『新しい学』からの一節が表ネタ、直接言及していないがフランク・カーモード『終わりの感覚』(The Sense of An Ending)が裏ネタだと思っていたけれど、やっぱり60年代に20代後半〜30代後半を過ごしたサイードだもの、フーコー(経由のニーチェ)ばかりではなく、ドゥルーズも読んでいて当たり前だよなあ。