拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

院授業録画中継(7)

第9章「黒いヒーローの限界」。
『オセロー』(心は白人である黒人)と『タイタス・アンドロニカス』(ステレオタイプな黒人表象を全面に出す黒人キャラ)を比較しつつ、前者も後者もコインの両面、ヨーロッパによる黒人の徹底的な他者化と、黒人の白人化の推進と最終的な排除の同時進行を読み取る、という議論。
しかし今日の問題は、Mさんいわく「私の恋愛(っつても英文学に対する変態性欲だよな)相談になっている」という、私自身の愚痴っぷりであった。文学研究における政治批評の問題というか、文学研究の意義というか、つまりはジェイムソンさんがジャンル論と構造主義分析をマルクス主義ラカンさんを接合しつつひとまずやりとげた通時的分析と共時的分析の弁証法的統合→コンラッド論の地平から私が実質的には一歩も前に出ていないことを嘆いたのだった。さらにいうと、同様の統合?をサイードも名人芸的にやりとげた、と思う。が、この私はどうか。ジェイムソンさん、サイードの仕事をふまえて、正木さんのテキスト読みから実質的な歩みを踏み出したのかどうか?
『帝国日本の英文学』も、Kさんの言葉をひっくり返して使えば「転進」なのだった。「転向」ではないと思うが。
・・・という話を延々やってしまった。私自身が確実な形で結果を出していない、そもそも出せるのかどうかもわからない課題というか悩みを院生さんにぶちまけてしまった。反省。