拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

物質なき唯物論

ド・マンのいう「物質性」がイマイチ分からないというKさんと一緒に小一時間カント『判断力批判』における「実際に目の眺め(Augenschein)が示すままに」について考える。この単語には、Augen(眼)+Schiein(見かけ)、すなわち「目に映った見かけ」という無意味なトートロジーが書き込まれているというところから、カントのいう純粋に美的な視覚は無意味な「物質的」視覚と呼ばれる、云々という議論における「物質的」がよくワカラン、と。(ネタは宮粼裕助「書評:物質なき唯物論の未来──ド・マン『美学イデオロギー』」)
結局、上野訳『美学イデオロギー』の「訳者あとがき」を読めばOKということになった。

ところでド・マンによれば、こうした意味での出来事というのは、物質的(material)な性格をもったものでもある。いかなる事象であれ、いったん世界のなかに実際の(actual)出来事として生じた以上は、物質的な痕跡(trace)をかならず残すことになるからだ。テクストの場合にそうした痕跡にあたるものが文字(letter)であろう。テクストには文字がまさに物質的な次元で書き込まれ(inscribe)、書き記され(note)、書き留められ(write down)ている。したがって、書かれたものすなわちエクリチュール(writing)をあくまでもそうした物質性(materiality)に即して捉えるかぎり、それは人間的な情動(affect)の入り込む余地などいっさいない、したがって人間的な価値や意味とはさしあたり無縁な、それ自体一つの物質にほかならないということになるだろう。およそ出来事というものが物質的に世界に出来するものであるかぎり、テクスト上に出来したエクリチュールもまた、物質的な書き込み(inscription)として把握しなければならないわけである。(上野成利訳『美学イデオロギー』、380頁)