拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

国際シンポジウム

2月23日(土曜日)に、私の所属している筑波大学文芸・言語専攻総合文学分野の教員と卒業生で国際シンポを開催します。「総合文学」のこれまでとこれからを記念するシンポになりますので、関係者のみなさま、どうぞふるってご参加ください。もちろん、東アジアにおける日本文学に興味がある方ならどなたでも大歓迎です。

国際シンポジウム「テクストたちの旅程 移動と変容の中の文学」
2008年2月23日(土)
筑波大学 総合研究棟B 公開講義室
 
会場へのアクセスはここをクリック
プログラム
司会:平石典子
筑波大学 人文社会科学研究科)
10:30−12:15 第一部

「芥川「松江印象記」とアアサア・シマンズ」
荒木 正純 (筑波大学 人文社会科学研究科)
安部公房の<満州体験>」
李 貞熙 (威徳大学校 日本語学部)
テクストが戦う−1932年の上海−」
李 征 (復旦大学 外文学院)
「「詩歌における言語内翻訳の可能性への考察─『チョコレート語訳みだれ髪』(俵万智著)を例にして」朱 衛紅 (上海財経大学 外国語学部)
「東アジアにおける厨川白村<近代の恋愛観>受容の様相」
李 承信 (高麗大学 日本学研究センター)

12:15-12:30 休憩
12:30-13:30 第二部        全体討議
コメンテーター: 金 孝順 (高麗大学 日本学研究センター) 
波潟 剛 (九州大学 比較社会文化研究院)

問い合わせ先:  茨城県つくば市天王台1−1−1
筑波大学 人文社会科学研究科 文芸・言語専攻
平石典子 hiraishiアットマークlingua.tsukuba.ac.jp

発表要旨は以下のとおりです。

荒木 正純「芥川「松江印象記」とアアサア・シマンズ」

芥川は「松江印象記」の「三」で、「水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示し」ているとし、「この水を利用して、所謂水辺建築を企画するとしたら、恐らくアアサア、シマンズの歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう」という。「アアサア、シマンズ」とは、今日の標記では「アーサー・シモンズ」(Arthur Symons)(1865-1945)のことで、英国の詩人・批評家で、フランス象徴主義を英国に紹介した人物である。
従来の研究で指摘されることはなかったが、芥川が「シマンズの歌つた」というのは、芥川の標記にしたがえば、「ヴエネテイア」と題されたつぎの詩の一節であると思われる。この詩は、Knave of Hearts という詩集におさめられ、 ‘August 6, 1907’ と日付をもつ.ものであった。このイメージがどのような経緯で「松江印象記」に入ったかを追究する。

李 征「テクストが戦う−1932年の上海−」 
1932年、上海事変の直後、軍事的戦争がしばらく鎮まった。けれども、事変の波紋は止まったどころか、マスコミからさらに文学にも広がり、日本と中国の間では、目に見えない新たな「戦争」がスタートした。新聞や雑誌はもちろんのこと、当時、モダニズムの最先端に走る映画という手段も動員されていた。日本では「肉弾三勇士」などのいわゆる新しい「軍神」が次々と作られてきたのに対して、中国では「十九路軍」の抗日事跡が国を挙げて謳歌されていた。
この「軍神」⇔「英雄」のパターンからちょっと離れているところに、一つの「異例」とも言える存在があった。「空閑少佐」という軍人のことである。上海事変中、十九路軍の「俘虜」となったこの日本軍人が、後に戦場で自殺した。これをきっかけとして、そのイメージは、きわめて不名誉な境地から、ぴかぴか光っている「軍神」にがらりと変わった。こうした変身の背後には、国家というシステムによって統制された言説空間が予想できるが、彼の「死」にまつわるいくつかの謎は説明しきれないまま、「軍神」と立ち上がられてしまった。
「軍神」へとひたすら走る日本のメディアとは違う方向で「空閑少佐」をとらえる作家もいた。そのなかには、意外に中国作家の姿もみられる。事変直後、「空閑少佐」のイメージは、日本の作品にだけでなく、中国新鋭作家の小説にも現われてきた。興味深いことである。映画、戯曲、小説……国境を越えた形で繰り返して描かれた「空閑少佐」。その解釈の裏には、中国の近代文学と日本モダニズムとのつながりが認められる。戦いながら連動しているテクスト、1930年代、日本と中国における文学的交渉の複雑さを象徴的に物語っている。

李 貞熙「安部公房の<満州体験>」

安部公房についてよく<非―日本的な感性を持っている>とか<大陸的な想像力を持っている>と言われている。また作品のなかでは、砂漠の乾燥した雰囲気とか荒野で成長する壁とか人間が繭に変身して消滅したり、都市という迷路のなかの失踪してしまう装置などを設けたりする。さらに、いつも困窮に落ちっている問題児の主人公、最後には消えてしまう女性たち、無力な父など、安部公房の作品には独特な世界が広がっている。
このようなイメージが安部公房の<満州>体験から形成したのではないかと思うのである。安部公房は2歳の1925年に<満州>に渡り、1946年日本に引揚げるまで、日本と<満州>を行き来していた。リービ英雄氏は安部公房の<満州>を安部公房文学の原風景だと言っている。実際、旧満州の現在の中国東北部地域を訪問してみると、安部公房の文学によく出てくる壁、砂漠、荒野などのイメージは、<満州>体験と無関係ではないと実感できる。
まず、壁に対する具体的なイメージは粘土塀から始まる。処女作『終りし道の標べに』(1948)には多様な粘土塀が出てくる。実際、粘土塀は町と荒野を象徴的に区別する境界線でもある。今も瀋陽に行けば、市内から少し離れたところでは粘土塀を見ることができる。この粘土塀が終わったところから荒野がはじまり、荒野に逃走できる出発点でもある。この粘土塀は大抵町(都市)の始まりでもあり、終わりのところでもある。
近づいてみると何かが地面を割って頭をもたげようとしているのでした。豆の樹でも生えてくるのだろうと思ってその横に腰を下ろしました。すると間もなく生えてきたのは植物ではなく、長方形の大きな箱でした。しかしもっとよく見ていると、それは箱でもなく、壁なのだということが分りました。壁は大地の圧力で押出されるように、あるいはあたりの空虚さのために吸上げられるように、ぐんぐん成長して行きました。間もなく壁は見渡すかぎりの広野の中に、ただ一つの縦軸として塔のようにそびえ立ちました。(『安部公房全集2』新潮社、1997、429項)
これは作品『壁―S‧カルマ氏の犯罪』の中からの引用で、まさに旧満州の開発につれて、地面からそびえ立つ建物の風景をそのまま描いているのではないかと思われる。何もない荒野に都市づくりが始められ、道路ができ、建物が建てられ、人々は移住して定着するようになる。けれども、都市から一歩出ればそこには荒野が広がるばかりである。そこから都市と農村との間にも壁ができ、さらに都市に住んでいる住民と住民との人間関係にも壁ができてしまう。つまり、<壁>の最初のイメージは地面からそびえ立つ建物からはじめ、そこから派生する象徴として人間の疎外問題や孤独、不安、既成観念などの表象ではないだろうか。
このように、安部公房の文学に表われているイメージ形成と安部公房の<満州>体験について考察してみたいと思う。

朱 衛紅 「「詩歌における言語内翻訳の可能性への考察─『チョコレート語訳みだれ髪』(俵万智著)を例にして」

普通は異言語間の移し換えを翻訳というが、問題にしたいのは言語内翻訳である。この翻訳はとくに古典に接する際などに意識されたりする。
俵万智『チョコレート語訳 みだれ髪』(1998年)は与謝野晶子の『みだれ髪』(1901年)を言語内翻訳したものであるが、注目されるのは、晶子の短歌を俵が短歌で翻訳する試みを行った点である。ここには詩歌の翻訳に対する問題提起が存在する。従来は韻文も散文と同様に取り扱われ、意味内容の言い換えで訳された。しかし、韻文の本質は意味以上にその韻律にある。いわゆる意味のみでなく、その韻律も含めた翻訳は可能か。俵が晶子の短歌を短歌で訳したことは、この問いへの一つの思案であろう。
俵訳は、晶子の表現を自分の言語感覚で言い換えることである。晶子の文語短歌に対し、俵は口語短歌である。文語に比べ、口語表現は長くなりがち、俵は現代語のどんな31文字で訳したのか。俵訳に顕著なカタカナ語や会話体への置き換え、その文末処理から俵の方法を探った。カタカナ語の導入は欧米風俗化という文化背景へのツールを開き、一種の文化の移転が実現された。また、会話体に訳すことで、恋人同士の日常世界を歌に持ち込んだ。『チョコレート語訳』は、それらの方法によって、『乱れ髪』と読者との間に存在する時間的な距離を短縮し、『乱れ髪』に新しい意味を与えた。
翻訳は対象を了解するだけでなく、その再言語化だから、そこに訳者の言語感覚による創作的な要素が生じる。これは翻訳の宿命ないし矛盾、その宿命を逆手にとって創造的な翻訳は成立する。R.Jakobson は、詩の翻訳はただ創造的な転移だけだと指摘している。詩歌の創作は何を伝えるかよりも、これしかない表現を生み出すことで、その翻訳は、もう一つのこれしかない表現を再創造することでのみ可能のはずである。俵訳が創造的な転移かどうかは即断できないが、それが詩歌の言語空間を豊かにする試みであることは確かである。

李 承信 「東アジアにおける厨川白村『近代の恋愛観』受容の様相」

大正期の後半には空前の恋愛ブームが起ったが、そのブームのきっかけとして、また大正恋愛論のバイブルとして注目されていたのが厨川白村の『近代の恋愛観』という書物であった。最初東西の『朝日新聞』に連載されていたが、記事「近代の恋愛観」は賛否両論大きな社会的反響をもたらしていた。その後1922年(大正11年)10月に改造社から単行本として出版され、これが一躍大ベストセラーになった。しかし、『近代の恋愛観』はさまざまな文脈で断片的に言及される一方で、<恋愛>ブームの終息とともに消費されてしまったと片付けられ、あまり研究されなかった感を免れない。
本発表では、 厨川白村の『近代の恋愛観』が いかに受容されていたかという問題をとりあげ、『近代の恋愛観』が日本だけでなく、中国や日本の支配下にあった朝鮮において受容されていた様相を具体的に検討する。とくにテクストの移動によって、それぞれのテクスト受容にいかなる変容がなされてきたかに焦点を当ててみる。日本における大正期の恋愛ブームは、関東大震災を分岐点として急速に退潮を見せ始め、そのまま終息に向かっていた。しかしながら、中国や韓国における『近代の恋愛観』受容の様相を端緒に紐解いてみると、それぞれの地域に<恋愛>ブームと類似した現象を見出せる。それぞれの現象を大正期の<恋愛論>の広がりとして捉える可能性を提示できることを目標とする。