拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

春学期授業終了、夏の業務開始

昨晩、春学期の授業は終わった。レポートは10日〆切(院はもうちょっと遅い)にしたわけだし、週明けからは博論の指導やら集中授業のmanagement、8月24日の大学説明会(比較文化学類)の仕切りなどがあり、ぶっちゃけ8月は全部つぶれる。毎度のことである。しかしそれでもラクである。
しかし、今年は、11月にピッツバーグで開催されるModernist Studies Associationに3人で参加して、Stephen Spender, "Problems of Modern Literature" (1958, 広島での講演)を取り上げ、(西洋文明の)reconstructionの代表的な作品としてJoyce, Ulysses (1922)とEliot, "The Waste Land" (1922)を肯定的に評価し、他方で(おそらくは1955年ころから出てきた、たぶん大原八三雄が編纂した「原爆詩人」の英訳アンソロジーを意識して) "occasional poem"だと明言しているのを取り上げる、予定。この準備でつぶれるだろうが、学問でつぶれるのは本望である。
発表のきっかけは、広島大学図書館にあった昔の紀要からスペンダーの講演録をコピーしてきたのが大きいのだが、もう一点、サイードBeginnings: Intention and Method (1975)に、『ユリシーズ』も「荒地」もこれは親→子のメタファーで語られるfiliation的作品ではなくて、もっと養子縁組関係(ゆるいつながり)のaffiliation的作品でしょう?というコメントがあったこと。
「冷戦文化戦士」のスペンダーの評価と、「異邦人」サイードの評価を踏まえて、ヨーロッパ(英語圏)のモダニスト文学が、広島の復興という文脈の中で、どのように利用されたのか、その利用には良くも悪くもさまざまな問題があったのではないか、という発表になります。
ジョイスもエリオットもaffiliation作品なら、スペンダーがoccational poemとして定評化した原爆詩集作品群をこそ、ジョイス&エリオットに絡めるのが肝要ではないかと。…だめならそれ迄だが。