「アマチュア」であること
福原麟太郎(広島県福山市出身、被爆後の広島を直接見たのは1948年)の原子爆弾(核問題)についての沈黙を考えるために、長崎出身だが被爆していない佐多稲子(長崎を見たのは1950年)が1972年に『樹影』という作品を書いたことを対比してみる、というような話を5月23日の台湾で話してくるが、ーーこの話をするのであれば井伏鱒二でもよいのだが、佐多の方が被爆者ではないにもかかわらず被爆者をテーマとした『樹影』を書いた理由について文章を残しているので、話をしやすいのであるーーその研究発表の予稿集の原稿を書きながら、福原麟太郎は「プロフェッショナル」な英文学者であり(トマス・グレイの草稿研究が福原の研究の根っこにある)、それはとても重要なことなのだけれど、この原爆という問題についていえば、福原はエドワード・サイードがかつて言っていたところの「アマチュア」ではなかった、なり得なかったのだなとあらためて感じた次第。福原と佐多の党派性の違い云々(大事だけれど)ばかりを語っていてもダメだよな、と思う次第。
そんなことを考えつつ、徐京植さんのこの文章を読んでいる。http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/17597.html
サイードの『知識人とは何か』も紹介…。あらためて紹介するまでもないような気もするが、こんな過疎ブログでも、学生さんも見ているかもしれないので。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/03/01
- メディア: 単行本
- 購入: 7人 クリック: 88回
- この商品を含むブログ (89件) を見る