拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

「皇統連綿三千年」「民族の純粋性」vs「諸人種雑居の地」(清水春雄ネタ)

Facebookに投稿した記事をそのままこちらに掲載しました。

岐阜からつくバック。清水春雄(1903〜1998or99)の没年確定は今回もできず。ただ、いろいろ収穫はあったので、ちょっとだけ書いておく。いや、もうこれは完全にマニアックな俺得ネタなので、文字通り備忘録です。
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手に入れづらかった論文を入手した。現物は紙もボロボロでございました(この時代のものならよくあること)。

(1)清水春雄「Frontier Spiritのアメリカ文学に及ぼせる影響」、『岐阜短期大学研究紀要』第1輯、1−26頁、1951年

これは、さっと見る限り、清水が1948年に広島大学に提出した卒論、_The Significance of the Frontier Spirit in American Literature_(未見、というか現物が広大に存在しているのかどうかを来週確かめてくる)をもとにしたものだと思うのだが、実は似たような論文を清水は別に書いている。

(2)清水春雄「FRONTIER SPIRIT の文學的表現」、『小樽商大人文研究』第4号、51-75頁、 1952年7月1日
(PDFで読むこともできる:  https://barrel.repo.nii.ac.jp/… )

(1)の「序言」の冒頭はこうである。

皇統連綿三千年の古い歴史と、民族の純粋性を誇っていた我が国が、植民地以来わづか三百年余りの短い歴史しかなく、而も諸人種雑居の地と思はれていたアメリカの軍門に下った。(中略)アメリカ文化は戦前迄は、我が国に於て、欧州諸国のそれに比べて甚だ軽く扱はれて来た。従つてアメリカ文学もSamuel L. Knappの"You are aware that it has been said by foreigners, and often repeated, that there was no such thing as American literature..." (Lectures on American Lit. 1892)という嘆きの言葉を極く最近に至るまでその儘に信じて、アメリカ文学と熟して唱えることに心進まぬ学者も少なかった。

(2)の冒頭はこうである。

Samuel L. KnappがLecture on American Literatureの中で"You are aware that it has been said by foreigners, and often repeated, that there was no such thing as American literature." と述べたのは1829年のことである。その頃の年代としてはアメリカ文学の存在が、蕾に他國の人々ばかりではなく、アメリカ人自体からも独自のものとして認められてゐなかつ
たのは無理もない。

やはり気になるのは、(1)では、「皇統連綿三千年」「民族の純粋性を誇っていた」日本と、「諸人種雑居の地」であるアメリカを対比し、前者が後者に負けたことを明言しているのに対して、(2)では、まさにこれらの箇所が削除されていることである。
(1)の冒頭は清水の本音なのだろうか?で、わずか1年後の論文で(2)「皇統」云々を削除したのは、心境の変化?あるいは何がしか空気を読んだ?無論、このようなことは論文を書いたご本人しかわからないことであり、ご本人がこの世の人でない以上、知るすべはたぶんない。知るすべはないが、こういう削除改変をしているということは記録しておく価値がある…かもしれない。
メモ。
【1】(1)と(2)を読んだので、余計に1948年の卒論を読みたくなった。「皇統連綿三千年」「諸人種雑居」とか、英語で書いているのだろうか。
【2】(1)は日本がアメリカに負けたことを明言しているが、自身の広島での被爆体験については言及がない。