拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

バレンボイム&サイード『音楽と社会』みすず書房、2004

読了。指揮者&ピアニストとしてのバレンボイムはほとんど知らなかったのだが(なんだかクライバーばっかりだったので)、9歳くらいでフルトベングラーと共演しようと言われたとか、凄い人がいるもんだ・・・ということはまあ単なるエピソードとして、とても興味深かったのは(サイードも興味深かったようだが)、音楽でホームの感覚とそこからの離脱をどう表現するか、というバレンボイムの説明だった。同じ音を使うにしても、導入部とコーダのところで違うスケールの中で同じ音を使うことである種のホーム(からの離脱)を表現するのだ、という説明。なるほどね〜。私もベースを弾くから彼の言おうとすることが実感をもって理解できた、ような気がする。そうか、スケール練習というのはこういうことを念頭においてやればいいのか。

もう一点。サイードがグールドおたくだというのはよく知られているが、バレンボイムとの対談を読みながらふと思ったのは、かつて浅田彰がどこかで(たぶん『逃走論』)『オリエンタリズム』は重要だが冗長だ云々とコメントしていて、そうかもなとその時は思ったのだが、でもあれはサイードのゴルトベルグ変奏曲なのだと理解すればいいのだと、いまさらながら気が付いたのだった。