『姜尚中の政治学入門』
- 作者: 姜尚中
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2006/02/01
- メディア: 新書
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七つのキーワード――アメリカ、暴力、主権、憲法、戦後民主主義、歴史認識、東北アジア――をごく簡潔に語ってゆくのだが、それぞれなかなか面白い。
例えば私は今Saturdayを再読していろいろ考えているわけだが、仮にこの小説を「総合文学入門演習」の授業で使うとすると、主人公ヘンリーと妻ロザリンドが闖入者バクスターが(事実上)逝ったあと激しくセックスする場面とか、ヘンリーがバクスターの脳挫傷を手術するシーンがエロティックに描写されていることとか以下省略を取り上げて、「暴力とエロスだ、ほら何か言ってみろや」と受講者を煽るのではなく、姜さんの次のようなフーコーの解説を読ませるのが教育的だろうと思うわけなのだ。
フーコーにとってはむき出しの暴力が問題ではなく、むしろそれを禁止し、暴力や欲望の領域から人間(自己=主体)を切り離して、それを法や義務、心理や道徳の領域に置き換えていく巧妙な知と権力のテクノロジーが最大の問題だったのです。真と偽、善と悪、正常と異常、文明と野蛮、民主主義と独裁といった二分法の体系も、そのような知と権力のテクノロジーと繋がっています。(56)
さくっとフーコーのおさらい。そして(チャート式に理解された)渡辺一夫的ユマニスムの限界を示唆しつつ「その次」を語る。
やや論理的に飛躍しているように思えるかもしれませんが、民主主義を実現するために独裁のような悪を殲滅しなければならないという「正戦」論的な先制攻撃の擁護は、そうした問題系から発生しているとみなしてもいいのではないかと思います。
フーコーが考えた抵抗は、法や規範、宗教を通じて作動する知と権力の支配に抗い、エロスに根拠をおいた新しい生存の技法としての倫理を確立することでした。
フーコーのいうエロス的な主体は、自己を「芸術作品」のように練り上げていく永遠の挑発者でもあります。もしこのような自己に準拠した主体の倫理を共存・共生関係へと繋がるような倫理にまで練り上げられれば、そこに抵抗と変革を志向する新たな共同の主体の倫理が形づくられるかもしれません。(57)
最低限これだけを頭に入れておけば、学生と一緒にマキューアンの小説を議論するにしても、議論が無理なく深まるだろうし、そこから本格的なフーコー論にもつなげられる、ような気がする。
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