拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

Travel Writingシンポ@大塚英文学会

4月1日、大塚英文学会が筑波大の茗荷谷キャンパスで開催されました。今回は、筑波の院生松田幸子さんのSpenser: The Faerie Queene (re-issue) (Longman Annotated English Poets)論と、荒木(筑波大)・川田(福島大)・霜鳥(福島大)の三氏によるシンポジウム「トラベル・ライティングの行方」という内容でした。

松田さんの「過去を予言する──The Faerie Queeneにおける予言成就の回避」は、まさにタイトル通りの発表で、スペンサーさんが書く"But yet the end is not."(3.3.49)を、このジャンルの構造的要請と、エリザベス女王礼賛(そして打倒陰謀)という文脈において検討するというもの。今回の発表では後者の視点が強調されたためか、質疑応答では前者の問題(予型論etc)が指摘された、という印象。

シンポは充実したものでした。正直、面白かった。
荒木正純さんの「〈サイ/差異〉表象の系譜──デュラー/ハレ/イーブリン」は、(新)世界と結びつけられて、あるいはそれを表象する記号としてのサイRhinocerusが、まずはデュラーさんによって装甲車のごとき一つの形を与えられ、その後/跡にハレさんの「垂れサイ」(と荒木さんは呼ぶw)が生じ、これが地政学の中で微妙に変形しつつ、ついには中国や日本にまで到達するというもの。あいかわらず全く知らないネタ満載。
川田潤さんの「極東を夢見る──〈帝国〉と〈異世界〉」における〈帝国〉とは中国帝国のこと。論旨は、グリーンブラットさん『驚異と占有―新世界の驚き』を引用する川田さん自身の言葉を借りれば、「他者表象を、他者についての言説を生産することによって、(自分たちによって都合の良い)知を形成する実践としてのみとらえるのではなく、「可動的で、動揺を与える寛容なる驚き」を記録するものとして読み込む可能性を探る」。ちょうどスピヴァクさんの「ネイティブ・インフォーマントの(不)可能な視点」についての議論を読んでいるので、グリーンブラットさんの「驚き」(「すぐ回収されてしまう」云々と言われてしまうわけだが)と接合できるかどうかをずっと考えてしまった。スピヴァクさんのあとはグリーンブラットさんを読もう!いや、すでに読んでいるわけなのだが、子供の頃に読んだので半分も読めていないよな・・・。
霜鳥慶邦さんの「ベデカー時代の世界を旅するには──20世紀前半のトラベル・ライティング」を聴いて、私は最強旅行ガイド「ベデカー*1によってlabel化された旅に抵抗するロレンスさんやウォートンさんに泣き、軽やかにアイロニカルにlabellingとsamplingを享受できるウォーさんにむかつき・・・と、霜鳥さんの絶妙なネタの組み合わせを堪能してしまった。ちなみに、霜鳥さんの意見では、ウォーの旅行記Labels: A Mediterranean Journal (Penguin Modern Classics)』(1930年の本だが、今でもペンギンですぐ手に入るのだな)でいわば「ポスト・ツーリスト」の時代になるわけなのだが、では作家はどうするかというと、これはジャーナリズムをやるのだそうです。なるほど。オーウェルさんの『カタロニア賛歌』とか、ちょっと時代はさかのぼるがジッドさんの『コンゴ紀行』とかのウラとしてウォーさんを考えればいいのだろう。
というわけで、私的にまとめるならば、霜鳥さんが紹介された「ポスト・ツーリスト」時代の“トラベル・ライティングの行方”については、荒木さんのようにいわば〈サイ〉が自己増殖して勝手に旅をしてしまうのに徹底的につきあうか、あるいは川田さんのように「驚き」を読むか、という大まかな見取り図は示されたのであった、ということか。ともあれ、遠いところからお越し下さった川田・霜鳥両氏には本当に感謝であります。*2

*1:ロレンスさんやイーディス・ウォートンさんを泣かせたこの「ベデカー」のauthorityの源泉、文化的資本ってどうなのかという疑問を持った。調べると面白そう。

*2:おまけ。川田&霜鳥両氏のレジメが「ベデカー」真っ青な精度と明快さを示している一方──後学のためにうpしたいくらい──、荒木さんのレジメは(やはり)過剰であった。