拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

専門英語講読

助手あがりのちんぴらなのに「専門英語購読」なる授業を任せられ、その難しさにいまさらではあるが呻吟している。

リーディングの指導というとライティングやスピーキングの指導と比べて簡単だと思っておられる先生方が多いような気がします。けれども、実はリーディングの指導ほど難しいことはないのではないでしょうか。スピーキングやライティングなどは生徒の考えていることが外に出ます。教師としては生徒の話したり、書いたりする英語の中から、生徒の理解していること、まだわかっていないことなどを見つけて指導することができます。/ところが、リーディング(特にその内の読解)となるとそうはいきません。テキストと向かい合っていても生徒が本当に読んでいるのかどかは外から見ただけではわかりません。読んでいそうでも、内容を理解しているかどうかは何らかの形で外に出るように試してみなければなりません。読解のプロセスは個人の頭の中で起こるものなのです。/読みというと伝統的に教室で、しかも40人、50人といった集団で同時にできるものというイメージができ上がってしまっています。けれども考えてみると、ものを読むなどということは普通は1人で行うものなのではないでしょうか。それを教室では、集団で同時に行うのですからかなりの工夫が必要になります。(金谷憲・谷口幸夫編、薬袋洋子著『英語教師の四十八手〈第5巻リーディングの指導〉』研究社出版、1993年、iii-iv)

昨年後半の授業を振り返ると、僕にはこの「工夫」が足りなかった。結局「読んで訳して」の罠にはまってしまった。
考えてみれば、僕はこのところ、〈英文学〉という国家装置の罠(というとちょっと大げさだけれど)に陥らずに英語のテクストをどう読むか、という「読み」の問題をやっているようなものなのだから、「専門英語購読」ではまさに理論の実践が要求されているわけだ。「工夫」をすることは、僕の場合、即博論の仕事と直結するはずなのだ。
とはいえ、学生に明治の翻訳を読ませるなどという無茶をしているわけではなく、ストーリーを追って行く果てにそのストーリーが反転破綻するさまを読ませるという、まあバーバラ・ジョンソンの仕事のようなものをある種の理想型として念頭において、イントロと結論から読め、ストーリーを構築しろと指導しているが、その先の脱構築はまだまだ。
こんなわけで、最近リーディング理論書や指導書を大量に買い込んでいるのだけれど、そのほとんどが中学生と高校生を対象としている。なぜ?大学でも「購読」の授業はあるわけだし、中高と同様の問題があるだろうに、店頭には大学(旧)教養における英語購読についてつっこんだ議論をした本はほぼないに等しい。そういう研究があることは知っているけれど(一応英語教育コース出身なので)。要するに、そんな本なんて買う大学教員がいないってことなのかな。*1

リーディングの指導 (英語教師の四十八手)

リーディングの指導 (英語教師の四十八手)

*1:実にデムパなことを書いている(苦笑)。[2006/07/12]