拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

遠いものを愛すること

新田啓子さんの同名論文から。

親密圏は、人間同士の豊かな相互関係を確保する足場であるには留まらない。その修辞性をつきつめていくと、なかば私的領域と同じく閉じられた系として同定されざるを得ない親密圏を、それでもいかにして他なるものと競合する、ゆえに暴力と連動した圏域として考えるか、その途が開けてくるように思われる。人が心身ともに安心し、信頼できる人間関係の場を親密圏と呼ぶにせよ、それを構成する個人的な趣味や欲求のみが人の生の基盤として本質化されてはならないだろう。親密圏とはもはや、一人の個人の私的領域ではなく、まさに私と公の二元性が流動する非対称な場に立ち現れ、かつ絶えず訪れる他者からの否定に晒された空間だろう。(『現代思想』2005年9月、94−95頁)

「エコノミーではない友愛」

こうした方向で考察すると、親密性とは、決して近しいものたちの間に生起する関係ではないことがわかる。あるいは、一見親密な関係に固有の要素であるとみられる近接性は、実は幻想的外形でしかないのであって、そこに連れ添うものを近接性、あるいは理解可能性の範囲でしか考えないとすれば、親密性は即座に暴力へと添加してしまうことになるだろう。いかに接触度が高かろうと、親密圏の住人は他者なのであり、他者とは決して「わたし」の欲望の鏡や延長ではない。ゆえに、自らの生の基底を分かち合うような親密な関係を成就するということは、近いものを遠いものとして、あるいは最も理解不可能なものとして愛し抜くことに等しい。さらにここで言う「遠さ」とは、他者を愛するという行いが、一方的な拘束や、ナルシスティックな自己投影に終わらないため、常に念頭に置かねばならない不可能性である。そしてここにおいて働く愛とは、愛するものの能動的な行為では決してない。他者に寄り添われる親密圏という場において、その人を愛するということは、すでにその存在に対する応答である。だから愛することは受動的な行いであり、その能動性は他者の側にある──一方が他方を領有しないで済む呼応関係においてはまた、時として愛が、それを断念することにより完遂されることもある。(102-103)

この議論はデリダさんの『友愛のポリティックス I』を参照したものであるわけなのだが、それにしても、新田さんが引用するデリダさんの言葉は私の心を刺す。

「友愛の可能性、意味そして現象は、敵の形象があらかじめそれらを呼び求めなければけっして現れない。すなわちそれらに友の問いあるいは反論をすら提起しなければ。傷つける問い、傷の問いを。可能な傷なくしては一人も友はいない。」(104)