拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

人は見た目、なのか?

こういう議論は19世紀末アメリカにも山ほどあって、それを読み解くのはかなりおもしろいらしい。
ということを知ることができたのは、昨日の夜に聞いた福井崇史さん(筑波大学大学院、総合文学5年)の博論構想発表「外見の修辞学:19世紀末アメリカ文学と人の「見た目」を巡る諸言説」のおかげ。
人を見た目で判断する技術やそれにまつわる言説というのは、例えば骨相学がその一つの中心になるわけなのだが、当然当時の文学作品(アルジャー、トゥエイン、ハウエルズ、ジェイムズ)にも複雑な形で絡んでくる。
複雑な形で、というのは、骨相学的に「人間の「見た目」から「中身」についての情報を引き出そうとする思考」は、以上列挙した文学作品においてはいわば脱構築されているから。
無論「見た目」/「中身」という対立自体中身がない、つねに反転しまくるはずであり、骨相学などの科学はその反転可能性を抑圧しようとしていたわけだが、文学テクストがパフォームしてしまったように、抑圧しきれるはずもない。福井さんの論文博士は、このあたりの「過程」をたどる研究となるようだ。
なにせ19世紀末の科学言説はさっぱりな素人なのだが、かつて奇書『地球の子供たち 人間はみな〈きょうだい〉か』とYさんの発表に刺激されてトウェイン『まぬけのウィルソン』を読んだ者としては、この小説の論考を含んだ福井さんの研究がきちんとした形でpublishされることを期待したい。
ていうか、おもしろかった〜。