拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

生物学的、動物的

2月3日。日曜日。
ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)』の第10章、『シャステルの奥方』を読む。15世紀「フランス・ブルゴーニュのリアリズムには、新しい秩序を建設するスタートは見られない」(427)。

この文化圏のどの著作家をとっても、ダンテはいうにおよばずボッカチオのようにさえ、彼の時代の現実全体を見きわめ、支配するということをしていない。おのおのがただ自分自身の領域しか知らず、いかにも狭いのだ。アントワーヌ・ド・ラ・サールのような、生涯を通じて広く遍歴した人々でさえ辺境なのである。世界に形式を与えるのには、志向が、積極的な意志が必要であり、人生の諸現象を理解し、再現しうる能力こそ、自己自身のごく狭い領域をふみこえさせる力を与えるのだ。シャステルの息子の死とかガストン・ド・フォワ皇子の死の示すところは、青春、紛糾、過酷な死以外のなにものでもない。それが終わってしまうと、読者には、無上の体験に対する、感覚的な、いわば肉体的恐怖しか残らないのである。作者は、それ意外にはなにものも提供してくれない。意味のある評価も、遠近法も、確固たる志向もない。しばしば見られる、そのきわめて鋭い、直接的・本来的なものに向けられた心理学でさえも──『〔結婚〕十五の歓び』の夫と妻との対話を想い出していただきたい──個性的というよりはるかに生物的なのである。(428)

15世紀ブルゴーニュを電脳的に加速すると20世紀末の日本になるってこと?(嘘)